信長に滅ぼされた朝倉氏五代の栄華と没落の地『一乗谷朝倉氏遺跡』とは!?
福井県福井市にある、かつて朝倉氏五代によって日本有数の街として栄えたと云われる『一乗谷朝倉氏遺跡』にやってきました!!
ココは今では寂しい城址と廃墟となった城下町が広がっているけど、この遺跡からは当時に京の都にしか無かった様なベネチアグラスなどが発掘されていて凄く繁栄した城と城下町が形成されていたんだって。
戦国時代の歴史好きなら一度は訪れてみたい”一乗谷朝倉氏遺跡”の行き方、歴史、見所をご案内したいと思います。
▼アクセス
一乗谷朝倉氏遺跡へ交通機関で訪れる場合、JR越美北線 一乗谷駅から頑張って徒歩約25分(2キロ)で訪れるか、土日祝(9:30 – 17:30)にのみ30分間隔で運行される遺跡内無料周遊バス「朝倉ゆめまる号」を使って訪れる方法があります。
でも、1日まるまる一乗谷朝倉氏遺跡を観光するなら公共交通機関でも大丈夫だけど、この後に永平寺等の福井県の観光スポットを巡る場合、自家用車やレンタカーを使わないと難しいと思うよ。
無料の駐車場が完備されているので車がオススメです。
住所:〒910-2153 福井県福井市城戸ノ内町
▼復原町並(有料)
一乗谷城址の見学より先に、この城の歴史を学ぶ為に有料エリアである”復元町並”に入城料220円(高校生以下及び70歳以上無料)を支払い入ります。
本格的に歴史を学びたい人は関連施設の「朝倉氏遺跡資料館」に先に行くことをオススメするよ!
▼歴史
先ずは展示室を見学し一乗谷朝倉氏遺跡の歴史を勉強してみました。
概要はこんな↓感じです。
朝倉氏がこの地を本拠地としたとされるのは南北朝時代という説や室町時代という説がありますが、栄えたのは応仁の乱によって荒廃した京都から、多くの公家や高僧等の貴族階級人々が避難してきた時と云われ、こうした人々によって北ノ京とも呼ばれる程に発展したと伝わります。 この繁栄は戦国時代の4代朝倉孝景公の頃には全盛期を迎え、最盛期には人口1万人を超える越前の中心地として栄えました。 永禄十年(1567)には後に室町幕府最後の将軍となる足利義昭が将軍として京に上洛すべく朝倉氏を頼り訪れますが、朝倉氏を頼りにならないと思ったのか義昭は織田信長の元に向かったとい云われます。 頼られた信長は翌年(1568)には義昭の期待に応え上洛戦を開始し戦国時代の歴史を大きく動かします。 そして、歴史は進み朝倉氏は織田信長と戦う事となります。 義昭が訪れてから僅か7年後の刀禰坂の戦いに大敗した事により一乗谷を放棄、街は信長の軍勢によって灰燼に帰す事となった云われております。
展示室は所要時間約2分かなぁ~
一乗谷城址と廃墟となった城下町の歴史の概要を学んだあと、”復元町並”を歩いてみます。
そんな大した事ないでしょ~と期待をせずに行くと!
遥か向こうの見えなくなる先まで土塀が続いています。
この復元された当時の街並み(といっても、大半が土塀ですが・・・)を歩いて行きます。
▼復元武家屋敷
先ずは、復元された武家屋敷に入ってみます。
中は当時を精巧に(たぶん・・・)再現された厠や実際の井戸を直したものが展示されております。
また、武家屋敷内部には当時の武士の生活が再現(たぶん・・・)されております。
途中には若い観光客も迎えれるようインスタスポットも設けられておりました。
更に奥へ奥へと進んで行きます。
最初に観た武家屋敷は再現されたものですが、未再現の箇所も気になったので入ってみます。
入ると、中には発掘された建物の礎石や井戸等が観られます。
実はこうした遺構は、この遺跡へ車で来る途中でも数多見られるんだ。
安土桃山時代より以前には、こうした井戸を飲み水としてだけでなく産湯等にも使っていたと考えると何とも歴史ロマンを思わずにはいられません。
更に奥へと進んでいきます。
そして最も奥のの行き止まりには当時の商人達が暮らしたであろう家々が再現されておりました。
その内の一軒を覗いてみると、人形と共に陶器が並んでいる陶磁器屋さんが再現されておりました。
あっ!!ココはブラタモリでも紹介されていた所ですね。
他には具足屋とでも言うのでしょうか??鎧を取り扱う商家なども面白かったです。
現代とは大きく違う当時の人々の生活様式はついつい見とれちゃうね。
復元街並みを一通り見た後は来た道を戻り、本日のメインディッシュとなる朝倉氏が拠点とした朝倉館跡に向かいたいと思います。
再現街並みとは川を挟んで反対側にある朝倉館跡へと向かいます。
朝倉氏館の顔ともいえる正面の唐門は江戸時代中期頃に再建されたもので、その横には土塁が背面を除き三面で守り、前には濠が造られております。
一見浅そうなお濠だけど、深い所だと水深が3mもあるんだよ。
そして後背部には山城が設けられております。
この館跡だけを観ると決して堅牢な城には思えないけど、ここは街全体が一乗谷川沿いの谷間に造られていて鎌倉の様に都市全体が城の様に機能していたんだよ。
では、唐門から朝倉氏館跡の内部に入っていきます。
かつて越前国を支配した一大大名であった朝倉氏の政庁が置かれた朝倉氏館の内部には17棟もの建造物があったそうですが、今では寂しく礎石が昔の面影を残すだけになっておりました。
奥を観ると山城が置かれた名残を残す石垣が僅かに見られます。
当時の木造建造物は何も残っていないけど、山城には当時の枯山水庭園が残っているそうだから、それを観に行こう!!
▼朝倉義景墓
順路に沿って山城へと向かうと途中には、後世に造られた朝倉義景公の墓があります。
1573年に信長によって滅ぼされた朝倉氏最後の当主・朝倉義景ですが、没してから3年後の1576年には地元の村民によって小祠が造られ菩提を弔ったと云われております。
現在するお墓は、1663年に福井藩主松平光通が建てたものなんだよ。
朝倉義景公のお墓に手を合わせた後、小高い観音山を登り「湯殿跡庭園」を目指します。
▼湯殿跡庭園
山を登る事約1分で岩がゴロゴロしている『湯殿跡庭園』に到着しました。
ここは、唐門から入って正面にあったと云われる当主館の背後の高台に位置した庭園の跡なんだよ。
現在では枯池になっちゃっているけど、発掘調査から朝倉義景が治めていた時には池に水があった事が分かっているんだ。
湯殿跡庭園からは朝倉館跡を一望出来ます。
▼さいごに
以上で、信長に滅ぼされた朝倉氏五代の栄華と没落の地『一乗谷朝倉氏遺跡』のご案内となります。
信長によって滅ぼされるまでは、日本有数の大きな都市として機能していた城と城下町ですが、滅ぼされた事により歴史の中に埋もれ地元の人たち以外には忘れ去れたという栄華と惨劇を感じる歴史ロマン溢れる素敵な場所でした。
皆様も訪れてみては如何でしょうか!!
▼最寄りの宿
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