茨城県土浦市にある小田原征伐の際に滅ぼされた『土浦城址』に行ってみた

土浦城址

ふらっと訪れた茨城県土浦市の市街地に日本城郭協会から「続日本100名城」に認定されている城が在る事を知ってしまったので、本日は観光目的では無かったのですが『土浦城』に行ってきました!!

えっ??土浦城??誰の城???武将は??歴史は??? そもそも、どこにあるの?? といったものを城内を観ながら城の歴史も併せてご案内したいと思います。


▼アクセス

道路

「土浦城」は、最寄り駅のJR土浦駅から歩いて10分程の距離にあります。

写真をご覧の通り、車・人の通りこそ少ないですが、駅からすぐ側の市街地内ですので道中の飲食店を観ながら、帰りには何処で吞んで帰ろうかと考えつつ訪れるとあっという間に到着です。

住所:〒300-0043 茨城県土浦市中央1丁目13 亀城公園

▼土浦城(亀城公園)

お濠

地元の人で無い限りよっぽどの歴史好きじゃないと知らない城ですが、道路沿いからも分かる立派なお濠を備えた平城です。

 この城は、平安時代に関東を抑え大和朝廷に弓を引いた武人・平将門が砦を築いたという伝説が在ります。

 しかし、それを示す文献が残っておらず文献上確かなのは室町時代の永享年間(1429-1441)に豪族の若泉三郎が築城したのが最初と云われております。

 戦国時代に入った永正十三年(1516)に小田氏によって城は奪われ小田氏の支城となりますが、その小田氏は上杉・佐竹勢に徐々に圧迫され、天正十三年(1583)に佐竹氏の軍門に降ります。

 それから7年後の天正十八年(1590)に豊臣秀吉の小田原征伐の際に、再起を期して小田氏の旧臣が北条氏と結んだ為に、佐竹や徳川の軍勢に攻められ、小田氏は滅亡してしまいます。

 その後、徳川が支配するようになってから、家康の次男の結城秀康が与えられる等、江戸に近いという事もあり徳川の重要な武将が抑えの為に城主として置かれてきた城です。

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▼霞橋

霞橋

 そんな幾度もの戦火を戦ってきた城ですが、土浦城は廃藩置県から2年後の明治六年(1873)に堀は埋め立てられ、二の丸等の建物は取り壊され廃止されております。

その為、大手門等も既に無く、廃城後に道も大幅に掛け替えられているので現在は大手門ルートではなく、旧大手門から見て裏手にある写真の「霞橋」から入場します。

「霞橋」は、土浦駅前を通る土浦市の基幹道路となっている国道125号線沿いにあるので、土浦駅から歩いてくると訪れる事が出来ます。

写真に奥に写る建物は「東櫓」です。

▼霞門

入口

「霞橋」を渡って直ぐにある『霞門』は、質素な造りで完全に裏門の様相をしております。

城内

『霞門』から中に入ると、二の丸等を通らず早速の本丸跡の広場に出てきます。

▼東櫓

東櫓

本丸跡の広場に入って直ぐの左手にあるのが「霞橋」からも見えた『東櫓』です。

東櫓は復元されたもので内部は土浦市立博物館の付属展示館となっております。

開館時間:9:00-16:30
休館日 :月曜日(祝日の場合は営業)
入館料 :一般 105円/児童 50円

敷地内
本丸跡を観て回ります。

銃眼
先ず最初に気になったのが、壁に開けられた銃眼です。

日本の築城用語では狭間(さま)とも言います。

銃眼は、文字通り鉄砲の銃口や弓等をこの穴からだして撃つ為のもので、戦国時代には既にありました。

デザイン目的で作っているものでは無いので、これが実戦で機能する場合は、当然人を殺める為の設備となっております。




▼西櫓

西櫓

 この『西櫓』は、「東櫓」と同様に江戸時代後期の十七世紀初頭に当時の城主であった西尾氏が本丸土塁の上に東西の櫓が建立されたました。

 土浦城は、その後の城主となった土屋氏の居城として明治に至るまで土浦の象徴として存在していました。

 その後は前述の通り、土浦城の主要な建造物は移築や取り壊し、火災等によって失われてしまっております。

 この西櫓は、市民の浄財によって復元されたものだそうです。

▼櫓門(太鼓橋)

櫓門(太鼓橋)

 大手門が在った当時に本丸への出入口として使われていたのが、この二階建ての櫓門です。

 二階部分には太鼓が置かれており、「土浦に過ぎたるものが二つあり 刻の太鼓と関の鉄砲」と言わしめたものの一つがココに置かれた太鼓です。

 ちなみに、「刻の太鼓」とは、城下に時を知らせる為に打たれた太鼓を指し、「関の鉄砲」は元上杉家家臣であった関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家は土浦藩の鉄砲指南役を代々務めておりました。

櫓門(太鼓橋)

 この写真は、「櫓門」を表から見たものです。 

 なので、ココから少し離れた場所にあった大手門から進みこの門の前まで来ると、いよいよ藩主への謁見が叶う緊張の最高潮を多くの侍たちが嚙みしめた見上げたアングルという事ですね。

 本丸を囲むよに造られたお濠には潤沢に水が蓄えられております。

 平城の場合、攻められた場合に一気に陥落する恐れがある為、本丸の真側にも堀を造る事で少しでも抵抗出来る時間を造るという意味がありますね。

 本丸を囲む堀の外に設けられていた二の丸は、大手門が在った当時には登城ルート沿いにあったと思われます。

 城の作り方で一般的な二の丸は、本丸への攻撃を集中させない様に敵兵力を分散させる目的で造られるものと、この土浦城の様に攻め寄せる敵に対し、1の難所、2の難所と順番に砦を造るものです。

 一見すると2つの作り方ともに同じ様に思えますが、前者は籠城を前提としたものですが、後者は時間を稼ぎその間に城主や主要な家族を逃がすと目的があるといった見方が出来ます。 これは、平城故に籠城には適さない為の苦肉の策だったと思われます。

▼旧前川口門

 この一見ちゃっちい門は、親柱の背面に控柱を立て、屋根を架けた高麗門です。

 この高麗門は、戸時代末期頃に城郭の門として建てられたもので、武家屋敷であった多計郭(たけくるわ)と町屋の間を仕切る「前川口門」であったと云われております。

 城内を散策後、お濠に沿って「霞橋」方面から帰路に向かいます。

 途中、城内に聖徳太子を祀る「太子堂」がありました。

 元々は近くの桜川沿いに建立されたものが土手の改修に伴い昭和四十年に土浦城内(公園内)に移されましたものだそうです。

 気になるのは、建立年が昭和十一年(1936)という点です。

 日本がが太平洋戦争へと突入する日本の時勢を考えると関係あるのかな??と考えすぎ??

▼さいごに

 以上で、茨城県土浦市にある小田原征伐の際に滅ぼされた『土浦城址』のご案内となります。

 続日本100名城に認定される城では御座いますが、知名度が低いのでこの城だけの為に土浦を訪れる方は少ないと思います。

 しかし、城に街並みにと楽しむ事が出来るのでオススメのスポットして紹介させて頂きます。

 皆様も訪れてみては如何でしょうか。

 ご精読ありがとうございました。

 最後に、ノスタルジー溢れる土浦市の街並みをご覧ください。