大化の改新前夜に討たれ滅亡した『蘇我入鹿首塚』を徹底解説!!

大化の改新前夜の乙巳の変において「中大兄皇子(後の天智天皇)」、「中臣鎌足」らに討たれた蘇我入鹿が眠る『蘇我入鹿首塚』にやってきました! 歴史の教科書にも出てくる蘇我入鹿を祀る首塚は、写真の通り石塔があるだけの寂しいものとなっております。 では、どの様な人物であったかを順に見てみて行きたいと思います。

大化の改新前夜の乙巳の変において「中大兄皇子(後の天智天皇)」、「中臣鎌足」らに討たれた蘇我入鹿が眠る『蘇我入鹿首塚』にやってきました! 歴史の教科書にも出てくる蘇我入鹿を祀る首塚は、写真の通り石塔があるだけの寂しいものとなっております。 では、どの様な人物であったかを順に見てみて行きたいと思います。




これから蘇我氏と蘇我入鹿についてお話いたしますが、日本史のキーマンともなるも乙巳の変で討たれた蘇我入鹿首塚は畑の広がる寂しい場所にあります。

これから蘇我氏と蘇我入鹿についてお話いたしますが、日本史のキーマンともなるも乙巳の変で討たれた蘇我入鹿首塚は畑の広がる寂しい場所にあります。




現代の飛鳥寺とは少し離れておりますが、一応境内の外れとなっております。 では、『蘇我入鹿首塚』を観ながら背景等をお話しいたします。

現代の飛鳥寺とは少し離れておりますが、一応境内の外れとなっております。 では、『蘇我入鹿首塚』を観ながら背景等をお話しいたします。




▼蘇我入鹿とは!?

蘇我入鹿の生年は分かっておりませんが、父の蘇我蝦夷の生年は586年頃と言われており、そこから推測すると600年~610年頃に生れたとみられております。 青少年期は僧・旻に学問堂で学んだ秀才と言われており、父・蝦夷が大臣であった642年(皇極天皇元年)に皇極天皇の即位に伴い、父に代わって国政を掌理する事になりました。 そして翌643年(皇極天皇二年)には父から独断で大臣を譲られます。 この頃の蘇我氏の権勢は凄まじく、この後も栄華が続くものと思われた矢先に「乙巳の変」によって討たれる事となります。

蘇我入鹿の生年は分かっておりませんが、父の蘇我蝦夷の生年は586年頃と言われており、そこから推測すると600年~610年頃に生れたとみられております。 青少年期は僧・旻に学問堂で学んだ秀才と言われており、父・蝦夷が大臣であった642年(皇極天皇元年)に皇極天皇の即位に伴い、父に代わって国政を掌理する事になりました。 そして翌643年(皇極天皇二年)には父から独断で大臣を譲られます。 この頃の蘇我氏の権勢は凄まじく、この後も栄華が続くものと思われた矢先に「乙巳の変」によって討たれる事となります。




▼蘇我氏による暴政

蘇我氏による董卓に比肩する暴政

聖徳太子と共に国造りをした祖父・蘇我馬子、聖徳太子亡き後には抑制するもの居なくなった父・蘇我蝦夷、全てを受け継いだ子・蘇我入鹿と最盛期となる蘇我氏の権勢は凄まじく、豪族達は朝廷に出仕せず、専ら蘇我家に出仕する有り様となったと伝わります。 更に、自邸を「上の宮門(うえのみかど)」「谷の宮門(はざまのみかど)」とし、さらに自分の子供達を皇子と呼ばせる様になります。 また、畝傍山に要塞を築き、皇室行事を独断で代行するなど人々は畏れ、道に落ちているものも拾わなくなったと言われております。 しかし、栄華を誇る蘇我入鹿の天下は長くは続きませんでした。 中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らのいわゆる「乙巳の変」によって、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で殺害される事になります。 従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げていた際、肩を震わせていた事に不審がっていた所を中大兄皇子と佐伯子麻呂に斬り付けられ、天皇に無罪を訴えるも、あえなく止めを刺され、雨が降る外に遺体を打ち捨てられたと云います。




▼蘇我氏のその後

蘇我氏のその後

蘇我入鹿が「乙巳の変」にて打たれた後日に父・蝦夷も自害し、蘇我本宗家は滅びる事になります。この後にも従兄弟の石川麻呂とその弟の蘇我赤兄が大臣を務めるが、石川麻呂はのちに謀反の疑いをかけられ自害し、赤兄も壬申の乱で流罪となり、以降の蘇我氏は納言・参議まで出世出来るかどうかの状態となります。 かつての権勢は戻らないまま、平安時代初期には公卿が出るのも途絶え、歴史の表舞台から完全に姿を消す事になりました。




▼名前に関する恐ろしい説

蝦夷と入鹿という名前に関する恐ろしい説

「乙巳の変」後には、蘇我氏親子の名前が変えられたという説があります。 それは、現代の我々が知る父・蘇我蝦夷、子・蘇我入鹿という名前は、実は中大兄皇子と中臣鎌足によって、本当の名前が書かれた資料と共に消去され、卑しく改変してしまったと言う説です。 名前だけでなく、この他にも蘇我入鹿の祖父である蘇我馬子が埋葬された石舞台古墳の封土もこの時に暴かれたという説もあり、死者にも鞭打つ恐ろしい時代であったのかもしれません。




▼さいごに

以上で、『蘇我入鹿首塚』の御案内となります。 日本の歴史に名を刻み栄華を誇った蘇我一族は、最盛期ながらも入鹿が討たれた事により転落し歴史の表舞台から消えて行くことになりました。 そんな末路がココ飛鳥の地に数ある巨大な墳墓との比較とで観る事が出来ます。 皆様も飛鳥見学に訪れた際には観に来られる事をお勧めします。 御精読有難うございました。

以上で、『蘇我入鹿首塚』の御案内となります。 日本の歴史に名を刻み栄華を誇った蘇我一族は、最盛期ながらも入鹿が討たれた事により転落し歴史の表舞台から消えて行くことになりました。 そんな末路がココ飛鳥の地に数ある巨大な墳墓との比較とで観る事が出来ます。 皆様も飛鳥見学に訪れた際には観に来られる事をお勧めします。 御精読有難うございました。

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