埼玉県比企郡吉見町の崖と崖の間に作られた「岩室観音堂」を解説!

石段を上り、観音堂真下には、八十八体の石仏が納められておりました。 これは四国八十八箇所の霊地に建てられた本尊を模した物で、ここでお参りする事で御遍路さんと同様の御利益が有ると言われております。

石段を上り、観音堂真下には、八十八体の石仏が納められておりました。 これは四国八十八箇所の霊地に建てられた本尊を模した物で、ここでお参りする事で御遍路さんと同様の御利益が有ると言われております。




八十八体の石仏を納めるには観音堂真下だけでは足りなかった為か、真横の崖をくり抜いた場所にも石仏が安置されているのが見えます。 この写真に写る鉄骨は、恐らく不安定な御堂を固定する為のものと思われます。

八十八体の石仏を納めるには観音堂真下だけでは足りなかった為か、真横の崖をくり抜いた場所にも石仏が安置されているのが見えます。 この写真に写る鉄骨は、恐らく不安定な御堂を固定する為のものと思われます。




全ての石仏には御札が貼られておりました。 なんとも奇妙な光景ですが、一人で訪れるには「ちょっと怖いなぁ」と思わざる負えません。

全ての石仏には御札が貼られておりました。 なんとも奇妙な光景ですが、一人で訪れるには「ちょっと怖いなぁ」と思わざる負えません。




八十八体の石仏の見学後、御堂真下に設けられた階段を観て、この建物が山門ではなく御堂そのものである事に気付きました。 先ずは、御本尊への参拝の為、階段を上り上階に進みます。

八十八体の石仏の見学後、御堂真下に設けられた階段を観て、この建物が山門ではなく御堂そのものである事に気付きました。 先ずは、御本尊への参拝の為、階段を上り上階に進みます。




御堂に上がると15畳程のスペースがあり、右側が祭壇になっておりました。

御堂に上がると15畳程のスペースがあり、右側が祭壇になっておりました。




この祭壇内には、武蔵松山城主が代々信仰し護持したと伝えられている弘法大師が彫刻したと高さ一尺一寸(36.4cm)の観音像が岩窟に納められております。 この御堂は、弘仁年間(810~824年)に始まったと伝わりますが、元々あった御堂は天正18年(1590年)豊臣秀吉が関東に出陣した際に武蔵松山城の落城に伴い全焼してしまった為、江戸時代の寛文年間(1661~1673年)に近郷の信者の助力を得て再建されたもので、江戸時代には珍しい懸造り様式となっております。 ちなみに、「岩室観音堂」は、近くにある寺院「龍性院」の境外仏堂です。

この祭壇内には、武蔵松山城主が代々信仰し護持したと伝えられている弘法大師が彫刻したと高さ一尺一寸(36.4cm)の観音像が岩窟に納められております。 この御堂は、弘仁年間(810~824年)に始まったと伝わりますが、元々あった御堂は天正18年(1590年)豊臣秀吉が関東に出陣した際に武蔵松山城の落城に伴い全焼してしまった為、江戸時代の寛文年間(1661~1673年)に近郷の信者の助力を得て再建されたもので、江戸時代には珍しい懸造り様式となっております。 ちなみに、「岩室観音堂」は、近くにある寺院「龍性院」の境外仏堂です。




この祭壇内には、武蔵松山城主が代々信仰し護持したと伝えられている弘法大師が彫刻したと高さ一尺一寸(36.4cm)の観音像が岩窟に納められております。 この御堂は、弘仁年間(810~824年)に始まったと伝わりますが、元々あった御堂は天正18年(1590年)豊臣秀吉が関東に出陣した際に武蔵松山城の落城に伴い全焼してしまった為、江戸時代の寛文年間(1661~1673年)に近郷の信者の助力を得て再建されたもので、江戸時代には珍しい懸造り様式となっております。 ちなみに、「岩室観音堂」は、近くにある寺院「龍性院」の境外仏堂です。

この御堂は、耐震の為なのか不安定なのか至る所に太い鉄骨で補強されており、高所恐怖症の人が2階に上がると若干怖いです。

この御堂は、耐震の為なのか不安定なのか至る所に太い鉄骨で補強されており、高所恐怖症の人が2階に上がると若干怖いです。