紅葉も美しい織田信長が建てた『安土城天守閣』の現在の姿を観に行ってみた

安土城址
 『安土城』の魅力を伝えるべく、余りにも膨大な数の写真を撮影してしまったので、前回に続いて安土城・天守閣への道中をご案内します。

 ※詳しくは、1ページ目からご覧ください。





 安土城は、ご覧の通り山に石垣、石段が設けられた城山です。

 まったくのバリアフリーではない道を歩いて山頂に向けて進まないといけないので、少々きついです。


 そして、歩いていると足元のあちらこちらに見える石仏。
 
 1ページ目でご案内しておりますが、石段のあちらこちらに石仏や墓石が石材として用いられております。

 信心深くない僕でも多少は心が咎める為、仏さんを踏まないに注意して石段を歩いていきます。

 こういったお地蔵様は数体とかの数じゃなく、ちゃんと探せば恐らく100体は優に超える数があるんじゃないかと思います。


 そして、石段はココまでです。
 
 ちなみに、お地蔵様が石材として使用されているのは石段エリア迄が大半です。


 運動不足僕には少々きつい石段を登り終え、休憩がてらに麓を眺めると木々が美しく紅葉し始めてきておりました。

 この安土城がある場所は、信長が居住した時には栄えたのかもしれませんが、今では人通りも疎らな寂しい完全な山になっており、心静かに紅葉・城を楽しむ事が出来ます。


 ここだけ少し平坦になっております。 

 恐らくですが、廃城となる前のこの開けた場所には小屋か、櫓かが組まれ兵が常駐兵が駐屯していた場所だと思われます。
 
 少し余談となりますが、戦国時代当時の軍制は普段は田畑を耕す農民が戦となると槍を持ち兵隊となりました。

 これは、武田信玄が治める甲斐も、上杉謙信が治めた越後も全国の大名が同様でした。

 その為、戦が続くと農業の担い手を戦に連れていってしまっている事から農業生産に非常な負荷がかかってしまい、継続した戦が出来ないという問題を抱えておりました。

 それを信長は日本で初めて軍事専門の常備兵置いた事で解決したと云われております。

 当然、それを可能とする財源等の諸問題も在りますが、これを可能とした事で尾張一国の小大名から一代で天下統一への大手をかける事が出来たそうです。

▼伝・織田信忠邸跡

織田信忠
 山の中腹を超えた所にある開けたこの場所は、織田信長の長男で家督を受け継いだ継承者、織田信忠の邸宅跡地と伝わります。

 これも余談ですが、信忠も本能寺の変の際に、信長と同様に亡くなってしまいました。

 当時の信忠は信長から家督も譲られていた為、仮に生き残っていた場合、その後の秀吉の天下も家康の天下も無かった可能性が高かったと思われます。

 明智光秀が信長を攻め滅ぼした際に、未だ逃げる事が出来る場所にいたにも関わらず父・信長の為、戦い亡くなった為、幻の天下人ともいえる人物です。

安土城石段
 天守に近づくにつれ厳かな雰囲気になってきました。

安土城石塁
 この石段を信長も登ったのだと思うと、なんとも感慨深いです。


 この城が実態として機能したのは僅か3,4年です。

 その後、直ぐに焼失してしまった為に実態として分かっていない事が多くあります。

 しかし、天下に大手をかけた信長が造ったという事があって、廃城となった今でも砦としての機能が残されている事があちらこちらで分かります。

▼織田信雄公四代供養塔

供養塔
 天守に向けて登っていると、何やら墓石のようなものが見えました。


 近付いて立て札を読むと、ココは信長の男色相手として深く寵愛された家臣・長谷川秀一の邸宅跡に造られた『織田信雄公四代供養塔』です。

 右から「初代・信雄公」、「四代・信武公」、「三代・長頼公」、「二代・高長公」を祀られております。

 ※織田信雄は信長の次男でありながら、秀吉の妨害によって跡目になる事が出来なかった人物です。





 更にどんどんと天守に向けて進んでいきます。

▼佛足石


 またも、気になる立て札が横に置かれた石ありました。


 近付いて観ると仏の足型に掘られた「仏足石」である事がわかりました。

 調べてみると、この石も他の墓石やお地蔵様と同様に、築城当時単なる石材として集められ石垣に使われていたそうで、昭和の初期に行われた登山道整備の際に、崩れた石垣の中から発見されたそうです。

 中世の貴重なものまでも、石垣に使われているのは面白いですね。


 紅葉を観ながら更に進んでいきます。

▼伝・二の丸跡


 そして、二の丸(西の丸)跡とされる場所にやってきました。

 奥に進んでいくとあるのが・・・

▼織田信長公本廟


 羽柴秀吉によって信長が亡くなった翌年の正十一年(1583)に建立された織田信長のお墓、「織田信長公本廟」です。


 信長の遺骨は見つかっていない為、信長の太刀等の遺品を埋葬して本廟とされております。

 ※ちなみに、信長の墓は全国に15箇所以上あります。


 信長のお墓に参った後、更に天守に向けて進みます。




▼天守閣跡


そして、ようやく天守閣の土台として築かれた石垣前にやってきました。


 この石垣を登っていくと


 礎石だけが残る安土城天守閣跡に到着しました。

 ここに約500年前、天下統一へ大手をかけた織田信長が建てたとされる天守閣がありました。

▼信長も眺めた景色


 本日は天気が悪く良い写真では無いですが、天守閣が建っていた当時に信長も眺めていた琵琶湖方面の景色です。

 その頃の信長は、後の天下人となった羽柴秀吉、徳川家康を実質的な部下として抱えており、まさかその僅か2,3年後に自身が殺害されてしまう事や、その後に子供や子孫が苦難の道を歩むとは考えていなかったはずです。

 むしろ、天下統一後の栄華を極めたビジョンを見ていたと思います。

 そういった歴史を考えると松尾芭蕉が詠んだ「夏草や 兵どもが 夢の跡」という句が思い出されます。
 

 天守を観た後、次に信長が安土城内に建立したとされる「摠見寺」へ向かいます。

 まだまだ、写真が多いため次に続きます。