天皇に忠義を尽くし鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞が眠る茨城の『金龍寺』とは

金龍寺

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 後醍醐天皇の綸旨に応え鎌倉幕府を滅ぼし後に、南朝の総大将として天皇に一生を捧げた忠臣・新田義貞公(にった よしさだ)の墓所がある寺院として有名な茨城県龍ヶ崎市にある曹洞宗『太田山 金龍寺』にやってきました!!

先生

 新田義貞公は同じく後醍醐天皇に忠節を尽くした楠木正成と共に忠臣として非業の死を遂げちゃった武将だね。

狸

 でも何で、新田義貞のお墓が龍ヶ崎市にあるの??

いくちゃ

 はい、ではその謎の解明も含めて本日は金龍寺への行き方や歴史を案内したいと思います。




▼アクセス

駐車場

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 金龍寺へ公共交通機関で訪れる場合は、常磐線・東京上野ラインに乗車し佐貫駅で下車し徒歩18分(約1.4㌔)で訪れる事が出来ますが、寂れた田舎町にあるのでタクシーを利用する事をオススメします。

先生

 お寺の中には無料の駐車場も完備しているから、このエリアを観光するならレンタカーや自家用車で訪れるほうがいいね。

住所:〒301-0041 茨城県龍ケ崎市若柴町866

門

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 立派とは言い難いですが彫刻が施された山門が設けられており、ここから境内に入り参拝をしてみたいと思います。

手水舎

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 境内に入って先ずは手水舎で手・口を清めて作法にのっとり参拝します。

 ※神社の作法だけど、寺でも必要なのかは不明・・・

六角堂

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 入って右手には、左から順に六角堂(正式名称不明)、観音様、釣鐘があります。

鐘楼

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 朝廷の忠臣を祀っている寺院という事もあり(たぶん・・・)、戦時中に釣鐘は供出しており現在の物は戦後に再建されたものとなっております。

▼本堂

本堂

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 手・口を清めたあと、本尊に釈迦如来が祀られる本堂へ参拝に向かいます。

狸

 さっきも聞いたけど何で、新田義貞のお墓が龍ヶ崎市にあるの??

いくちゃ

 では、本堂を参拝しながら新田義貞公のご紹介から順にご案内します。

▼本堂

本堂
【新田義貞公とは!?】

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 新田義貞は、元は鎌倉幕府の御家人(実質の家来)でした。 その為、後醍醐天皇が幕府との戦いを始めた当初は幕府方として戦い(元弘の乱)天皇方を破ります。

先生

 鎌倉幕府の御家人だった頃の義貞は、足利尊氏の部下だったという説もあるんだよ。

いくちゃ

 敗れた後醍醐天皇は隠岐の島に島流しとなりますが、僅か1年で脱出し再度反攻を企てるのですが、その際に各地の有力武将に綸旨(天皇の命令)を送り、共に鎌倉幕府を打倒するよう呼びかけます。

先生

 隠岐の島は、島根県の離島で絶景が堪能出来る素晴らしい島なんだけど、昔々は罪人の島流し先の流刑地となってたんだ。

いくちゃ

 この時、別件で幕府方と険悪な状況となっていた新田義貞は幕府の役人を切り捨ててしまい、後が無くなった義貞は天皇の綸旨に応えたという体で足利尊氏の息子・千寿王と共に鎌倉幕府を攻撃し遂に滅亡させてしまいました。

先生

 瓢箪から駒みたいな感じで大勝利を手にした新田義貞は、後醍醐天皇による建武新政樹立の重要な立役者の一人となったんだね。

いくちゃ
ixcha

 はい。 しかしながら、この新たに建てられた建武政権は天皇家や公卿ばかりが良い思いをする政治を行うので、それに対し各地の武士達の不満が高まっていきます。

先生
先生

 鎌倉幕府によって長い間政治の実権を握られていたから、天皇や公卿が営む朝廷側はここぞとばかりにやっちゃったんだね。

いくちゃ

 その不満が頂点に達した建武二年(1335)に同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により官軍の総大将に任命されて対抗する事となります。

 当初は天皇方として優位に戦況を進めますが、「武士を疎かにする天皇の為に戦わされる武士達」 VS 「武士の為に立ち上がり戦う足利尊氏」という構図では当然に天皇方は士気も上がらず新田義貞は敗れてしまいます。 そして、最後は流転した北陸の地で戦死を遂げます。




本堂
【何故、新田義貞のお墓が龍ヶ崎市にあるの??】

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 金龍寺は、新田義貞が亡くなってから半世紀を過ぎた頃に孫の貞氏が追善供養を行う為に、群馬県太田市に創建した事に始まります。

 その後、末裔で新田金山城主だった由良国繁が茨城県牛久市に転封される時に一緒に移転し、現在の場所に来たのは寛文六年(1666)と伝わります。

先生

 という事は新田義貞の遺骨等は少なくともこの地には無いという事だね。

狸

 京都に首塚はあったけど、胴体はどこなのかしら!?

いくちゃ

 では、次に新田義貞公のお墓(遺骨は無いけど・・・)へお参りをする為、本堂横の立派な地蔵菩薩を通り抜け探します。

先生

 正面には義貞公のお墓の場所の案内板等無かったから「どこにあるんだろう??」って不安になるね。

いくちゃ

 でも安心して下さい!! お堂を正面にみて左手の地蔵菩薩を通り抜けると写真に写る取って付けた様な案内板があるので、ここまで来れば迷う事はありません。

いくちゃ

 寂れた森の中に入るように奥へと進んでいきます。

いくちゃ

 少し歩くと異常に立派な灯篭がおかれております。

 「おっ!正面に見えるのが、そうかな!?」となりますが、違います。

いくちゃ

 灯篭を正面にみて右手に新田義貞公のお墓は有ります。

先生

 知らないと、てっきり奥側だと思うよね。

いくちゃ

 分かり易く木製の名札が置かれており、中心に近い順に「由良國繁」、「新田貞氏」、「新田義貞」のお墓という事が分かります。

先生

 由良國繁は、戦国時代から江戸時代にかけての武将で後北条氏→滝川一益→北条氏政→豊臣秀吉→徳川家康と主君を変えながら生き残った7,000石余を有した関東武士だよ。

 大名という定義自体は諸説あって難しいけど、江戸時代には1万石以上の所領を持つ者が藩主を名乗ったという定義があるから、その点では大名では無い武将だね。

 また、新田貞氏は、前述の通り新田義貞の孫(曾孫とも)だよ。

狸

 この3人の中ではダントツで新田義貞が有名なのに一番端っこにお墓が置かれているのが不思議ですね。(知らないけど・・・)




▼さいごに

いくちゃ

 以上で、天皇に忠義を尽くし鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞が眠る茨城の『金龍寺』のご案内となります。

 歴史に「IF」は有りませんが、もし後醍醐天皇が楠木正成や新田義貞の献策を採り入れ足利尊氏と和していれば、その後の壮絶な戦死等も無く、この金龍寺も有名な寺院として知られたかもしれません。(そもそも、そうなるとこの金龍寺ではなく京都に墓所が造られたでしょう・・・)

 皆様も鎌倉幕府を落とし、一時には大将軍として日本を代表する武将となった新田義貞公が寂しく眠る当寺へ参拝し歴史の妙味を味わいに来ては如何でしょうか。

 ご精読ありがとうございました。

先生

 日本史の転換点の中心にいた武将のお墓を観においでね~




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