平和を祈る人々の思いが詰まった長崎県の『長崎原爆資料館』へ行ってみた

長崎原爆資料館

 長崎県長崎市の市街地にある通称『長崎原爆資料館』にやってきました!!

 この公園は「平和記念公園」の一部で、平和記念像のある「願いのゾーン」、原爆投下中心地に造られた「祈りのゾーン」、そして今回ご案内する長崎原爆資料館のある「学びのゾーン」の3つから構成されております。

 今から約75年前に、多くの無実の人々を焼き殺した米国による原爆の恐ろしさを観てみたいと思います。




▼入館料

館内

 原爆資料館は他の博物館等とは、そもそもの存在意義が異なり、多くの人々に原爆の凄惨さを伝える大きな意義があります。

 その為、入館料が大人200円/小中高生100円と破格の設定となっております。

時を戻る

 入場ゲートを入ると円形のスロープを下り、時を遡って見学する展示となっております。

館内を散策

 ここから長崎という街の歴史と共に原爆が齎したものを学んでいきます。

▼被爆前の長崎

被爆前の長崎

 長崎は、1571年にポルトガル船の来航により、歴史の幕をあけました。

 江戸時代に入り鎖国が行われるようになると海外に開かれた唯一の窓口としてオランダ・中国の使節・商人が訪れる事が出来る街として発展しました。

 幕末に入ると洋館が建ち並び、居留地貿易で賑わい明治以降、近代化とともに貿易の街から造船の街へと変わりました。

 その後、日中戦争、第一次世界大戦、第二次戦争へと戦争の連鎖への深みへと入るにつれ、戦時色を強めていきました。

 そして、三方を山に囲まれ、374年の歴史を刻んだ『長崎』に、1945年(昭和20年)8月9日、地獄の始まりが訪れました。

 -原爆資料館-




▼原爆投下

原爆投下

 広島に原爆が落とされた3日後の1945年8月9日、長崎に原爆が落とされました。

 原爆は8月6日にテニアン島で組み立てられ、

 8日、アメリカ陸軍在グアム第20航空隊司令部作戦命令17号において、小倉を第一目標、長崎を第二目標として翌9日に投下する事が指令された。

 9日、B29ボックス・カーは小倉上空に達したが焼夷弾による煙の為投下を断念、第二目標の長崎に向かい、同日11時2分、原爆を投下した。

 -原爆資料館-

11時2分を指して止まっ柱時計

▼11時2分を指して止まっ柱時計

 この時計は、爆心地より南へ約2.8㌖の民家にあったもので、原爆炸裂の時刻である11時2分を指して止まっていた。

 -原爆資料館-

▼長崎型原爆(ファットマン)

長崎型原爆(ファットマン)

 長崎に落とされた原爆は、その形状から米兵士よりファットマン(太っちょ)と呼ばれました。

 内部は、プルトニウムを内側にして爆薬で包むように配置されており、爆薬の爆縮を利用し核分裂を起こす仕組みとなっております。

 長さ3.25㍍ 直径1.52㍍ 重さ4.5t 爆発力TNT火薬21kt相当

 -原爆資料館-

▼原爆の惨状

原爆の惨状

 広島と長崎へ落された原子爆弾による死傷者数や被害度合いを見ると、広島は死者約140,000人に対し、長崎は約74,000人と倍ほども死者数が異なるため、広島型原子爆弾の方が威力の強いものの様に思えますが、長崎に落とされたものの方が約1.5倍も威力が上回っておりました。

 この違いは、長崎の三方を山に囲まれた地形が生みました。

 山が爆風、熱戦を遮り平坦な広島に比べ広範囲への被害を抑える事となったと云います。

遺骸

 爆発した核爆弾の内部の温度は250万度に達した。

 内部から放射されたエネルギーは、爆弾周辺の空気に衝撃を与える。

 衝撃波が半径約8mに広がったあたりから、閃光というより火の玉「火球」として視認される。

 放射線が周囲の空気に衝突し青白く光らせる。

 100万分の15秒後、温度は40万度に下がり、火球は直径20mとなる。

 0.2秒後には火球の直径は310mとなり、表面温度は6,000度で、この時に最も大きく明るく見える。

 また地上に熱線の影響が出てくる。2秒後までに熱線は90%が放出される。

 この頃からガンマ線が大量に放出され、空気が反応して紫色に見える。

 0.51秒後、火球は縮み始め、煙が出始める。1.7秒後にはキノコ雲が形成され始める。

 この頃に地上を襲った熱線による瞬間的なやけどが、被爆死亡者の20 – 30%の死因となる。

 衝撃波が地上を襲う。

 窓ガラスが割れ、破片が音速を超える速度で人々を襲う。

 -wikipedia-。

被爆した浦上天主堂の側壁

▼被爆した浦上天主堂の側壁

 爆心地より北東約500㍍に位置し、東洋一の規模を誇った浦上天主堂は、原爆によりほとんどが倒壊、焼失した。

 この側壁は聖堂の南側残骸の一部を再現したもので、聖像は熱線と炎により黒く変色し、石柱は爆風によりずれが生じている。

 -写真は、館内に再現されたもの-

浦上天主堂の天使像

▼浦上天主堂の天使像

 浦上天主堂で被爆したこの天使像。

 白人が黄色人種の頭上へと落とした原子爆弾に何を思うのか。

溶けたロザリオ

▼浦上天主堂の天使像

 爆心地より約600㍍の被爆焼失した民家より発見されたもの。

 すさまじい熱線と炎のためガラス製のロザリオは飴のように溶けている。




▼手の骨とガラス

手の骨とガラス

 爆心地付近で見つけたもの。

 人間の手の骨とガラスが高熱の為溶けてくっついている。

館内

 見るにつれ、知るにつれ、アメリカという国への憎悪が止まなくなってきます。

 米国は以下の事を決め軍人ではなく、民間人を狙い投下しました。

 「原子爆弾は日本に対してできるだけ早期に使用すべきであり、それは労働者の住宅に囲まれた軍需工場に対して使用すべきである。 その際、原子爆弾について何らの事前警告もしてはならない。」

 無警告で、民間人の頭上に落とすという戦争犯罪を犯したのである。

▼米国戦略爆撃調査団報告書

館内

 では、アメリカは日本に本当に原子爆弾を落とさなければならなかったのでしょうか?

 それは、「米国戦略爆撃調査団報告書」の中に記されておりました。

 「あらゆる事柄について詳細な調査に基づき、そして関係の日本人指導者の証言により、当調査団の見解は次の通りである。

 すなわち、たとえ原爆が投下されなかったとしても、たとえロシアが参戦しなかったとしても、そして本土上陸が計画、検討されなかったとしても日本は確実に1945年12月31日以前に、そして恐らくは11月1日以前に降伏していたであろう。」

 上記の通り、米国自ら不要に多くの人々を殺した事を認めているのである。




▼米国側の原爆投下に対する認識

ドワイト・アイゼンハワーのことば

 最後に、原爆投下に加担した米国人自身の言葉を抜粋し、ご案内します。

 ハーバート・フーバー 第31代アメリカ合衆国大統領
 「いかなる詭弁を用いようと、原爆投下の主目的が、戦闘員ではなく女子供老人などの非戦闘員の殺傷であったことを否定することはできない。

 そもそもアメリカは日本を挑発しなければ決して真珠湾を攻撃されることはなかっただろう。」

 ドワイト・アイゼンハワー 米第34代大統領 連合国軍総司令官
「原爆投下は、米国兵士の命を救うためには全く必要のないものだった。我々は日本に原爆を投下する必要はなかった。」

 連合国軍総司令官 ダグラス・マッカーサー
「日本がソ連に和平仲介を頼んだと知った1945年6月、私は参謀達に、戦争は終わりだと告げた。ところがワシントンのトルーマン政権は突如日本に原爆を投下した。私は投下のニュースを聞いたとき激怒した。」

 マンハッタン計画参画の科学者 レオ・シラード
「ドイツがアメリカに原爆を落としたとしましょう。その後ドイツが戦争に負けたとします。その場合我々アメリカ国民の誰が”原爆投下を戦争犯罪とし、首謀者を極刑に処す”ことに異議を唱えるでしょうか?原爆投下は外交的にも人道的にも人類史上最悪の失敗だったのです。」

 -wikipedia-

▼さいごに

石碑

 以上で、平和を祈る人々の思いが詰まった長崎県の『長崎原爆資料館』のご案内となります。

 民間人を狙い、多くの無辜の人々を焼き殺したアメリカに、これからも日本人は何も言えずにいるのか、考えさせられる資料館となっておりました。

 皆様も訪れてみてはいかがでしょうか。

 ご精読ありがとうございました。

▼アクセス

 住所:〒852-8117 長崎県長崎市平野町7−番8号

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