石田三成の「佐和山城」正門を移築されたと伝わる『宗安寺』へ潜入調査!

宗安寺 彦根

 彦根城前の御土産屋さんが立ち並ぶ「夢京橋キャッスルロード」沿いにある浄土宗の寺院『宗安寺』へやってきました!!

 この寺院は、関ヶ原合戦で敗れた西軍の実質的な総大将であった石田三成の居城である「佐和山城」を戦後に破却する際に、正門を移築されたと伝えられる寺院です。

 歴史マニアにはヨダレものなキーワードが並ぶ、「宗安寺」の見所を観てみたいと思います!!




▼赤門

赤門

 この寺院の一番の見所がこの『赤門(あかもん)』です!
 
 豊臣奉行として名を馳せた石田三成は、当時の落首に「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と言われた城の元城門です。

 しかしながら、当時から評価された城で且つ、秀吉子飼いの家臣で、豊臣譜代大名とまでなった石田三成の城門にしては意外と小さくも感じます。

 そこで、調べてみると領民の負担を軽減する為に城内の作りは板張りの居間に荒壁と質素であったとの事です。

 三成の立場を考えると、贅を尽くし金銀財宝をたんと貯めこむ事も出来たでしょうが、伝わるには陥落した佐和山城に金銀が少しもなく、三成は殆んど蓄えを持っていなかったそうです。

 そう考えると、城門が質素であってもなんら不思議で無くなります。

 

赤門 正面

 関ヶ原合戦は、豊臣の世に終焉を齎す序章であり、徳川の時代への変遷期のクライマックスとも言える戦いでした。

 慶長五年に関ヶ原の戦いで三成率いる西軍を破った東軍は、西軍を裏切った小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を攻撃した「佐和山城の戦い」を行います。

 関ヶ原に大半の兵力を送っていた佐和山城は、三成の父・石田正継を筆頭に戦うも奮戦むなしく落城してします。

 その後の徳川の世では現在の大阪城が秀吉時代の痕跡が殆ど残っていない様に、佐和山城も徹底的に破却されてしまいました。

 その為、今では佐和山城址に残るのは僅かな土塁等だけとなっております。

 この「赤門」は、勝者が敗者の腑分けをするが如く、バラバラにされた城の痕跡の一つという訳です。




▼境内

境内

 境内は、それ程広くはないですが大坂夏の陣で戦死した、豊臣家の忠臣として名高い木村長門守重成(きむらながとのかみしげなり)の「首塚」等が有ります。

本堂

 現在の本堂は江戸時代中期に長浜城付属御殿を移築したもので、本尊には鎌倉時代の作で大坂夏の陣の時に淀君の念持仏(ねんじぶつ)と云われれる「阿弥陀如来立像」が祀られております。




鐘楼

 また、彦根城側にある歴史ある寺院だけあり「鐘楼」も立派です。

観音像

 どこの寺院の墓所も経営が大変そうですが、歴史ある「宗安寺」も同様に真新しい立派な観音様が墓所横に祀られておりました。(宗安寺さんの経営が大変かは分かりません。 勝手な私の思い込みの可能性が9割です。)

行者堂

行者堂
修験道の開祖で、不思議な神通力をそなえられた奈良時代の行者、「役小角(えんのおづぬ)神変大菩薩が祀られ、行者講によって守られている。
-看板より-

黒門

黒門
江戸時代、日本は李氏朝鮮と国交をい開いており、李王朝からの使者である通信使一行数百名は幕府への往来の途中この彦根に泊まり、特にこの宗安寺は、その正使ら高官の宿泊所となった。

この黒門は、その時の御馳走搬入の勝手口に使われたと伝えられている。

-看板より-




さいごに

 以上で、石田三成の居城「佐和山城」正門を移築されたと伝わる『宗安寺』の御案内となります。
 歴史に「もし」は有りませんが、もし関ヶ原合戦で石田三成率いる西軍が勝っていれば、この寺院の見所である「赤門」は、今日でも佐和山城にあったのかもしれません。 
 是非とも、彦根城に訪れた際は歴史を堪能しに訪れてみては如何でしょうか。

 御精読有難うございました。




▼アクセス

住所:〒522-0064 滋賀県彦根市本町2丁目3−7

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