祟りが恐ろしい日本で最も怖い場所「平将門の首塚」を徹底解説!!
東京千代田区大手町という大都会東京の中心部にある「平将門の首塚」にやってきました!! 平将門は、今から1000年以上前に非業の死を遂げた平安時代中期の人物で、現在でも神として、怨霊として祟りが恐れられています。 「平将門の首塚」の見学と共に、どの様な人物だったのか歴史を観ながら御案内致します!
先ず、平将門の首塚が安置される場所の異様さから見ていくと、首塚を正面に見て左手に皇居があります。
そして、右手には東京駅が直ぐ側にあり高層ビルが林立している一等地にあります。 調べた所によると都心の一等地という事もあり、これまでに幾度も撤去されたり破壊されてきたそうですが、その度に祟りをなし元に戻されてきた歴史があるそうです。 有名なところでは戦前に大蔵省の建物が首塚の上に作られたが、役人が次々と足を負傷したそうで、その時も平将門を足下にした祟りだと言われたそうです。 しかし、祟りはそれに留まらず大蔵省の建築に関係したその時の大蔵大臣を始め、現職の職員十数名が謎の死を遂げたそうです。 ここに至り、昭和二年に鎮魂碑を建立し祟りを納めたとあります。 ここで祟りが終われば都心の一等地の有効利用がされたと思われますが、日本が太平洋戦争に負け進駐したGHQによってこの場所を更地にし駐車場にしようとしましたが、整地作業に携わった米軍のブルドーザーが横転し、またもこの地で死者を出してしまいました。 そして、やはり何かある。・・・・という事が判明し、供養塔として整備され今日に至ったそうです。
敷地内へ不敬の無い様に入ります。 では、そんな次々と人々に祟りをなす「平将門」とは、どういうった人物だったのか? 平将門は1500年有余年の昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍平良将の子として現在の千葉県佐倉市に生まれた皇族の血を引く人物でした。 しかし皇族とはいっても臣下に落ちた血筋でもあり、当時は藤原氏が権勢を誇った時代で平将門は、京都へ出仕後もけっして高い位に付いておりませんでした。 しかし、十余年の宮仕えの後、朝命により下総国(千葉)に赴任した事を切っ掛けに叔父達との戦いが始まり、朝廷との齟齬と和解を繰り返し、坂東八ヶ国を平定するに至りました。 そして権勢を誇る藤原氏への鬱憤なのか、政治システム自体への憤りからから、自ら平新皇と称して政治の革新を図る事になります。 それに対し朝廷は直ちに平貞盛と藤原秀郷を派遣しました。 朝廷から軍勢を送られた事を知らない平将門は、自身の元に集まった軍勢を帰還させてしまったタイミングという事もあり奇襲を受け、馬上陣頭に戦って憤死しました。 享年三十八歳でした。
置かれた看板には「平将門は、平安時代中期に関東地方で大規模な反乱(天慶の乱)を起こした人物です。 徳治二年(1307年)遊行寺二世真教上人が江戸に行脚した折、将門塚が荒れ果てていたため塚を修復し、板石塔婆を建てて傍らの日輪寺において供養したとされます。 その霊は神田明神において祀られ、神田明神が移転した後も塚はこの地に残りましたが、大蔵省再建事業の際に崩されました。 幾多の変遷の後、昭和四十五年(1970年)に将門塚保存会などにより現況のように整備されたものです。」と記載されていました。
幾度となく破壊と再建を繰り返された「将門の首塚」を保存すべく、組織された保存会の碑があります。 彼らが居る限り今後この塚が破壊される事は無いでしょう。
敷地内に入り、先ず将門の首塚を参拝に向かいます。
入って20歩ほどで首塚は有ります。 この日は別に何かある日でも無いですが、多くの参拝客が来ており塚周辺はお供えで撒かれた日本酒の臭いが立ち込めておりました。
表に見える「南無阿弥陀仏」の石碑の裏に現在大規模工事中の為、「平将門の首塚」はガラスケースに守られていました。 西日本では、祟りをなす恐ろしい存在として知られる将門は、関東では弱気を助け強きを挫く英雄として尊敬と畏怖を持って信仰される存在となっております。
平将門の事を知らない人が来ても、至る所に設置された看板を読むことで恐ろしいだけの存在では無く、英雄としての面も知ることが出来ます。
言い伝えでは討ち取られた将門の首は京都の七条河原にさらされたが、何ヵ月経っても腐らず生きているかのように眼を見開き、歯ぎしりをして夜な夜な「斬られた私の五体はどこにあるのか。ここに来い。首をつないでもう一戦しよう」と叫び続けたので、恐怖しない者はなかったそうです。 ある時、歌人の藤六左近がそれを見て「将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が はかりごとにて」と歌を詠むと、将門のさらし首はカラカラと笑い、突然地面が轟き、稲妻が鳴り始め、関東を目指して空高く飛び去ったと伝わります。 この首は、途中で力尽きて地上に落下したとも伝わり、各地に将門の首の伝承が残っており、最も有名なのがこの東京千代田区大手町の平将門の首塚です。 この首塚には移転などの企画があると事故が起こるとされ、現在でも畏怖の念を集めています。
首塚の表面はボコボコとなっており、さざれ石の様になっています。 これは、歴代の破壊によるものなのか、それとも再建された時にこの様なデザインとされたのかは分かりませんが、非常に古いものに思えます。
カエルの石像が首塚横に安置されていますが、これが一体なんなのかは不明です。
余談ですが、千葉県成田市にある「成田山新勝寺」は、東国の混乱を恐れた朱雀天皇の密勅により京の高雄山にあった空海作の不動明王像を平将門を調伏する為、下総国公津ヶ原に運び不動護摩の儀式を行ったのを、開山起源に持ちます。 その為、将門に関わる子孫や住民は、1000年以上たった今でも成田山新勝寺へは参詣しないと言われています。 以上で、「平将門の首塚」の御案内となります。 将門への不敬な行いをし子々孫々まで祟られない様に参拝される事をおススメします。 御精読有難うございました。
名称 平将門首塚 所在地 東京都千代田区大手町1−2−1 料金 0円 種別 塚 怨霊 備考 悪ふざけで訪れると罰が当たります。 評価 70点
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