大阪市にある遺骨数万体を集めて造られる骨仏の寺『一心寺』に行ってみた
鎌倉時代の元年にあたる文治元年(1185)に浄土宗の開祖・法然によって創建された大阪市天王寺区にある『一心寺』にやってきました。
本題から逸れちゃう余談だけど、昔は学校で「イイクニツクロウ(1192)鎌倉幕府」で覚えされていたけど、近年では文治の勅許(朝廷から源頼朝に対し与えられた守護・地頭の任命権)が許可された文治元年(1185)に鎌倉幕府が成立したと教えられているんだよ。
この寺院は、10年毎に集まった遺骨で造る骨仏(仏像)が有名で、創価学会員等の一部の宗教信者以外は宗旨に関係なく誰でも1万円で納骨させて貰える事から特に大阪では貧乏人でも佛になれる事で知られております。
本日は、一心寺さんのアクセスや見所、歴史をご案内するよ!!
▼アクセス
一心寺がある場所は、商業ビルが立ち並ぶ大阪の中心地で天王寺駅から徒歩15分の一等地にあります。
この辺りは、あべのハルカス等の巨大な商業施設もあるけど、四天王寺さん等の古い寺院も密集するエリアなんだ。
都心にある一心寺へは公共交通機関を利用し、天王寺駅から徒歩で向かう事をオススメしますが、車で訪れる場合は少し離れた天王寺公園地下駐車場(土日祝8:00~22:00は30分300円、最大料金は2,400円)を利用する事をオススメします。
最寄りの有料パーキングは、とにかく駐車料金が高いのでよく見て利用した方がいいです。
住所:〒543-0062 大阪府大阪市天王寺区逢阪2丁目8−69
一心寺さんの正面坂を上り境内に入っきましたが、古刹だからと思い込み訪れると、そのモダンな造りに驚かされます。
▼山門
鉄とコンクリートで造られた斬新なデザインの山門が参拝客を迎えます。
元々は、豊臣時代の大坂城の三の丸にあった玉造門を移設した「黒門」と呼ばれた大きな長屋門が有名だったんだけど、大阪大空襲で焼失してしまったんだ。
戦後に入り復興もされたそうだけど、一心寺の僧侶で建築家である高口恭行という長老によってこんな門になったんだって。
長老って・・・
勝手に言ってるんじゃないよ!!Wikipediaにも高口恭行は長老って書いてるんだ。
斬新ですけど、こちらは仁王像です。
山門をくぐって境内に入ります。
流石は誰でも受け入れる一心寺さんだけあって、休日は多くの参拝客で溢れております。
▼大本堂
境内を中心部に歩いて行くと真新しい大本堂が出てきました。
この本堂も、戦後の昭和四十一年(1966)に再建されたものです。
訪れた本日(2019年年末)は耐震化工事中だったから扉も閉められていたよ。
閉じられた本堂に手を合わせた後、骨仏を探しに更に奥へと進んでいきます。
この写真では分かりづらいですが、寺院で無ければボヤ(火災)と見間違う程の煙に覆われたエリアにはいってきました。
▼納骨堂
線香の爆煙に包まれたている正体は、本日のメインとなる骨仏が鎮座する「納骨堂」でした。
コロナウイルスが蔓延する前だったから、多くの参拝客で凄まじい煙に包まれていたよ。
本日も下調べを全くせずに訪れた為、実際に骨仏を観る事が出来るのか少し不安でした、納骨堂にはココに仏像が祀られている胸が書かれております。
▼骨仏
そして、人だかりの為に遠目ですが骨仏(こつぶつ)の姿が見えましたので手を合わせます。
チェコにある骨の教会で知られるセドレツ納骨堂みたいなおどろおどろしいものを想像してたけど、全然怖くないね。
冒頭でご案内した通り、10年毎に集まった遺骨で骨仏が造られている為、どんどん増えて行っております。
でも、歴史は意外と浅く一心寺で骨仏が造られる様になったのは、明治時代に入ってからなんだ。
では、次にWikipediaに詳細が記載されてましたので、かいつまんでご案内します。
▼骨仏の歴史
江戸時代、一心寺は檀家を持たない寺社奉行直轄の寺院でしたが末期にもなると衰退してしまいました。
そこで、五十世住職の真阿上人が天保年間の中頃に庶民向けに宗派を問わずに無縁の精霊を供養する施餓鬼供養を始めました。
すると、大坂に丁稚奉公で出てきた地方の次男坊らが大坂で先祖供養をしたいと先祖の分骨を一心寺に寄せるようになり興隆します。
しかし、納骨堂が限界を迎えるようになった為、明治二十年(1887)に遺骨を粉砕した粉を固め阿弥陀如来像を作りました。
これが、現在の一心寺の代名詞ともいえる骨仏(こつぼとけ)の始まりです。
-Wikipediaより-
丁稚奉公という地方から出てきた人たちの悲しい事情もあったんだね。
▼本多忠朝の墓
境内で骨仏にならんで多くの参拝客が訪れる場所の一つに『本多忠朝の墓』があります。
本多忠朝は、徳川家康の重臣の本多忠勝の次男で戦国時代きっての猛将としてしられる戦国武将だよ。
この寺院に忠朝の墓が置かれるのは、大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いで最前線に立ち戦死したためです。
大阪冬の陣の時に酒を飲んで戦闘し敗れた忠朝は家康に怒られちゃったんだ。
それで夏の陣の時は発奮して戦ったところ討ち死にしたと云われているよ。
忠朝が死に際に「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺言した事から、禁酒を誓う人々から「酒封じの神」として崇められております。
▼開山堂
帰路で一心寺開基の法然上人を祀る開山堂に手を合わせ当寺を後にします。
▼さいごに
以上で、大阪市にある遺骨数万体を集めて造られる骨仏の寺『一心寺』のご案内となります。
皆様も大阪の哀愁ある歴史に触れに訪れてみては如何でしょうか。
ご精読ありがとうございました。
▼最寄りの宿
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