東大阪にある楠木正行(小楠公)が眠る『岩瀧山往生院六萬寺』に行ってみた

岩瀧山往生院六萬寺
 大阪平野と奈良盆地とを隔てる生駒山地の麓の東大阪市にある、知る人ぞ知る仏教寺院『岩瀧山往生院六萬寺』に行ってきました!!

 この寺院には天皇家に忠義を尽くした一族の楠木正行(小楠公)の墓所(胴塚)がありますが、地元でも余程の歴史好きでない限り知られておりません。

 その理由に、寺院が墓所としての静寂を保つ為に観光地として解放されていない事と、道頓堀等がある大阪の中心エリアから離れており交通の便が悪い点が挙げられます。

 ですが、歴史好きとして非常に面白い寺院でしたので、ご案内したいと思います。





 

▼禁止事項が沢山

撮影禁止
 この寺院へと何も知らずに訪れると「撮影禁止」等の禁止事項を前面に押し立てた看板が無数に掲げられている事に、何やらソワソワする恐ろしさを感じると思います。

 実際に僕も和尚さんにお会いして話を聞くまで、かなり訝しく感じておりました。

 しかし、これらは防犯対策の為の撮影禁止(監視カメラの位置等)である事や、マナーの悪い参拝者を排除するという目的の為とお聞きして安堵しました。

 ※本日ご案内する写真は、当然ですが了承を得て防犯上の影響がない個所のみでご案内します。

石段
 かつて、鎌倉時代末期から南北朝時代の動乱期を描いた大河ドラマ「太平記」が放送されていた頃は、多くの観光客が訪れたそうですが、約30年経た現在では閑散としております。

 綺麗に整備された石段を登り、境内に入っていきます。

▼境内

境内の社務所へ
 この寺院へは車で訪れる事は出来ますが、境内は勾配のきつい斜面に造られており歩くだけで少々疲れます。

 ちなみに、要予約ですが事前に連絡する事で駐車場をお借りする事が出来る事があります。

本殿
 こちらへ訪れた場合、必ず最初に寺務所へお伺いし参拝の許可を得る様にして下さい。

 入口にあった沢山の禁止事項を掲げる看板を観てから来た僕は、「一見の参拝者は嫌がられるんだろうなぁ~」と思いつつ寺務所に入ります。

 しかし、和尚さん方は非常にwelcomeで迎えて頂け、この寺院の成り立ちや、「楠木正行」について丁寧に教えて頂けました。

本殿
 おそらく現在の本殿がこちらです。 (間違っていたらすいません。)

 本殿(たぶん)へ参拝後、和尚さんに案内頂き楠木正行の墓へと向かいます。

▼楠木正行公墓

楠木正行の墓へ
 楠木正行公のお墓は厳重に管理されており、基本は事前に連絡を行い寺務所関係者の方にアテンド頂き参拝する事になります。

墓碑
 では、ここで当山を訪れるのが楽しくなるよう、楠木正行公が生きた時代歴史を簡単にお話します。

 時は鎌倉幕府の天皇家を蔑ろにする政治に憤慨した後醍醐天皇が全国の武士に呼び掛け倒幕の反旗を翻した鎌倉時代の末期です。 

 その時に集まった一人が、ここに祀られる楠正行の父・楠正成です。

 しかし、この頃の鎌倉幕府はまだまだ強く、天皇方は敗戦に次ぐ敗戦を重ね、ついに後醍醐天皇は捕虜となり現在の島根県の遥か離島の隠岐の島へと島流しにあいます。

 これで倒幕の火も消えたかと思われましたが、軍略にたけた楠正成はゲリラ戦を行い、幕府方を翻弄しながら抵抗を行いました。

 そして、幕府方の隙を突き後醍醐天皇は、島を抜け出し戻ってきます。

 この後は、双方決定打の無いまま優勢な兵力を持つ幕府方と、ゲリラ戦で粘り強く戦う楠正成擁する天皇方は戦いを続けます。

 この戦いが長く及んだ頃、急に均衡が崩れました。 

 当初幕府方として参戦していた足利尊氏が一大兵力をもって離反し、幕府の京都支社とも言える六波羅探題を滅亡させます。

 これに前後して、関東では新田義貞も幕府方から離反し、尊氏の息子と共に鎌倉幕府を攻め滅ぼしてしまいました。

 ここから後醍醐天皇は建武の新政と呼ばれる幕府中心の政治から政治を取り戻し天皇による親政を行いだします。

 が、しかし余りにも天皇や公家が中心となった政治に各地の武士達は不満を募らせていきます。

 そして、ついに武士の不満が頂点に達した時、足利尊氏は天皇方から離反し、天皇方と足利方の戦いが始まります、

 この時、天皇方に楠木正成、新田義貞等の倒幕に功績のあった武士が付き当初は優勢に戦いを進めます。

 しかし、軍略はおろか戦の仕方をしらない天皇や公家が指揮をとった為に逆転され、ついに楠木正成が建武3年(1336)に湊川の戦いで敗れ討ち死にしました。

 この時、正行は11歳頃と云われており、後を託す為に父・正成によって逃がされ涙の別れをしたと伝わります。

 その後、新田義貞も敗れ後醍醐天皇は京を離れ、奈良の山奥の吉野へと逃げ延び南朝を起こし、ここから南北朝時代と言われる天皇が2人いる時代へとなってゆきます。

 そして、楠木正成の子、楠正行も父が亡くなってから12年後に南朝の総大将として四條畷の戦いで敗れ亡くなりました。

 その首は北朝が治める京都へと送られ晒された後に、所縁のあった宝筐院へ埋葬され今日に至ります。

 また、胴体は本日訪れたこの六萬寺に埋葬されたと云われております。




門
 二重に扉された門を開けて頂き内部へと入ります。

 ちなみに、順番に撮影している様にご案内しておりますが、実は未だ撮影許可を頂いていない為、これらの写真は許可を頂いた後に逆順に撮影したものとなります。

▼楠正行

楠正行
 門をくぐって直ぐに見える銅像が忠義の人「楠正行公」です。

 なんでも2代目の像だそうで、初代は太平洋戦争の時に鉄の供出を行った際に出されたそうです。

 像になっても国(天皇)への忠義が変わらない、日本人の鑑です。

十二社権現
 この小さな祠は、当山が近代に入り再興された時に造られた「十二社権現」です。

 ちなみに、当山は大物によって再興し時代を経て荒廃を繰り返してきており、寺伝によると元々六世紀頃に建てられた桜井寺と云う古刹があった場所に聖武天皇の勅願によって行基が天平十七年(745)に、薬師如来を本尊として創建したと云われております。

 幾度も荒廃、再興を繰り返す中、父・楠木正成が亡くなった後の南北朝時代にまだ幼少だった楠木正行が往生院で武芸を学んでと伝わります。

 そういった縁と戦略上の重要な位置にあった為、正平三年(1348)には四條畷の戦いにおいて南朝方総大将となっていた楠木正行がここに本陣を置いたため、戦火が及び焼失してしまいました。

楠正行の墓
 その忠義から天皇自ら楠木正成へと下賜された「菊水紋」が門に刻まれたこちらが、楠正行の墓所となります。

 今では静かになった当山で静かに眠られております。

 が、しかしココで興味深い話を聞きました。 

 この墓所は、じつは近年に造られたもので、実際にご遺体が埋められていたのは、近くの斜面だそうです。

 なんでも、明治の時代になって国策によって四條畷神社を造る事になった際に、忠義の一族である正行所縁のこの地に寺を廃して造られる可能性が非常に高かったそうです。

 そのため、寺域の強制的買収を恐れた往生院は楠正行に纏わるものを処分し、自ら破却したそうです。

 その後の再興する際に、石の塊である供養塔は見つかったそうですが、それがあった正式な場所がどこか分からなくなってしまったそうです。

 なんとも残念な話です。

▼御朱印

御朱印
 最後に御朱印を頂き、丁寧に案内頂けた住職に感謝を申し上げ寺を後にします。

 以上で、東大阪にある楠木正行(小楠公)が眠る『岩瀧山往生院六萬寺』のご案内となります。

 マナーを守れる方は、天皇に忠義を尽くした正行の足跡を辿りに訪れてみては如何でしょうか。

 ご精読ありがとうございました。




▼アクセス

住所:〒579-8061 大阪府東大阪市六万寺町1丁目22−36

▼最寄りの宿

リッチモンドホテル東大阪

OsakaMetro中央線長田駅から徒歩約2分!大阪市内まで電車約30分!関西の拠点として!
577-0013
大阪府東大阪市長田中1-3-16

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