米国の原爆によって破壊された長崎市の観光名所『浦上天主堂』に行ってみた

浦上天主堂

 長崎に観光に来ればココにも行っとくでしょうという事で、長崎県長崎市にある『浦上天主堂(現在の名称:カトリック浦上教会)』にやってきました。

 この教会は隠れキリシタンの苦悩を今に伝える地として、長崎原爆の惨状を伝える地として多くを物語る貴重な場所となっております。

 この教会の歴史と共に見どころをご案内したいと思います。




平和公園駅

 浦上天主堂へは、長崎駅からチンチン電車に乗り「平和公園駅」で下車し向かいます。

浦上川の支流

 平和公園を経て浦上川の支流を山手に向かって歩いていくとオレンジ色の教会が見えだしました。

 本日訪れる『浦上天主堂』の地名・住所は長崎市本尾町1-79となっておりますが、昔は浦上村という農村があった場所です。

 日本にキリスト教最大教派であるカトリックが伝来以来信者となるものが多かった土地である為、江戸時代、明治時代初期に「浦上崩れ」と云われる隠れキリシタンが摘発された土地として有名です。

表口

 そして、浦上天主堂の表口に到着しました。

 この教会は、明治時代に入り日本の鎖国が解除されてから先に出来ていた大浦天主堂から神父が派遣され浦上村の庄屋の跡地に造られましたものです。

浦上天主堂

 レンガ造りのこの美しい教会が建てられたのは、大正三年(1814)ですが、後述致します長崎に落とされた原子爆弾によって破壊されてしまった為、現在にあるものは1980年に再建したものです。

 この教会が建てられるまでに数百年という歳月を苦しんだという人々の歴史を調べてみました。




▼信者発見

信者発見

 日本にキリスト教が伝来したのは、皆さんも歴史の教科書に落書きをして楽しんだ偉人として記憶があるのではないでしょうか?? フランシスコ・ザビエルさんが戦国時代であった日本に1549年に来日した事に始まります。

 ザビエルは織田信長ら時の権力者や、その土地の権力者の庇護のもとキリスト教の布教を行いました。

 通常時であれば新参の宗教は広がりにくいものですが、当時日本で最も信者が多かった仏教が堕落し邪宗となってしまっており、その事に嫌気がさしてきた人々が改宗し拡大していきました。

 また、貴族しか極楽に行けないとされた仏教に対し、誰しも神のもと平等に天国に行けるとの教えも大きく寄与したと云われております。

 それらは、時代が織田の時代から豊臣の時代へ移っても、当初は寛容に受け入れられ一般の民衆だけでなく黒田官兵衛や高山右近等の大名もキリシタン(キリシタン大名)となる等、日本に広がりました。

拷問石

 しかし、豊臣時代中期頃になると拡大していくキリスト教が政権を脅かす脅威となる恐れが出だした事、またキリスト教会が日本人を奴隷貿易に売り払っていた事実等が公となる等が重なった事から、ついには禁教令(バテレン追放令)が出される様になりました。

 その弾圧は豊臣時代は比較的形式的なものだったと云われますが、徳川時代になると厳しいものとなり歴史の授業でも習った「踏み絵」等で信者を炙り出し、磔の刑等に処しました、

 そこから棄教が出来ない信者たちは「隠れキリシタン」として、約200年間もの長い間司祭もいないまま隠れながら親から子へと脈々と伝えられていきました。

 そして、慶応元年(1865)の幕末の開国後に長崎の大浦天主堂に信者が訪ねてきたことから、隠れキリシタンの存在が国内外で知られるようになった。

 写真は、浦上天主堂の境内の一角に置かれるこの『拷問石』と呼ばれる石です。

 この石は、長崎のものではなく山口県萩市に配流された信徒らが正座させられ、棄教を迫る際に用いられたと云われるものです。

拷問石

  一見すると、ただの石ですが近づいて観ると十字架が刻まれております。

浦上天主堂

 キリスト教は、日本が明治時代に入り直ぐに禁教令が解かれたと思われている方も多いですが、明治に入ってからも続きました。

 この禁教令が解除されたのは、日本政府が西洋列強と結ばされていた不平等条約を解消しようと尽力するもキリスト教を排除する日本の姿勢に西洋諸国からの反発を招き条約改定の障壁となっている事が判明した明治六年頃となります。

 以上、長々となりましたが日本のキリスト教の歴史です。

構内

 ちなみに、この教会は所属信者が7000人をも超える日本最大のカトリック教会としても知られております。




▼長崎原爆

遺構

 次に、この「浦上天主堂」が受けた原爆の惨状を見てみたいと思います。

旧浦上天主堂

 この写真は被爆前の「浦上天主堂」です。

 1945年8月9日午前11時02分 米国によって落とされた原子爆弾は、広島に落とされた原爆よりも1.5倍もの威力をもっていました。

 爆心地から非常に近い距離にあったこの教会は、その爆発力を至近距離で受けた為原形を留めぬまでに破壊されてしまいました。

鐘楼

 この写真は、崩れ落ちた鐘楼の一部で、よく見ると当時の面影を残しております。

 長崎に原爆が落とされた時、浦上天主堂には多くの信者が訪れており、主任司祭を始め天主堂内にいた信者たちは全員原爆の熱戦や、崩れ落ちた瓦礫の下敷きとなり亡くなってしまったと云われております。

聖像

 落下中心地付近では約3000℃から4000℃の高温と云われております。

 教会の側に落とされた原子爆弾によって石で出来た聖像も焼かれました。

 表面をよく見るとキラキラと光っております。

 これは、表面のガラス質が解けた跡だそうです。




▼さいごに

裏口

 以上で、米国の原爆によって破壊された長崎市の観光名所『浦上天主堂』のご案内となります。

 この教会は観光地としても知られておりますが、現役の教会として信者さん達が祈りを捧げる場所となっておりますので、訪れる際はマナーを守って見学して下さい。

 皆様も、悲劇の歴史を観に訪れては如何でしょうか。

 ご精読ありがとうございました。




▼アクセス

 住所:長崎県長崎市本尾町1-79

▼最寄りの宿

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長崎県長崎市浜口町10-18

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