かつての京都風葬地入り口に建つ『引接寺(千本ゑんま堂)』へ潜入調査!

引接寺(千本ゑんま堂)

 京都市上京区閻魔前町にある高野山真言宗の寺院『引接寺(いんじょうじ)』にやってきました!!

 この寺院には、人が亡くなった後、地獄に行くか極楽浄土へ行けるかを決めるあの世の裁判官でもある「閻魔大王」本尊に祀られているという珍しい寺院です。 

 この寺院の事を知らずに訪れてしまうと、ものの一分で参拝を終えてしまいそうになりますが、知ると面白い歴史を持っております。

 京都人でも知る人ぞ知る閻魔堂を御案内してみたいと思います!!




▼千本通

京都市上京区閻魔前町

 本日訪れる寺院は、京都の三大墓地の一つである「蓮台野」の入り口にあり、かつて千本の「卒塔婆」があった事や、千本の桜があった事から「千本通り」と云われる通り沿いにあり、本尊に閻魔像を祀っている事から地元では『千本ゑんま堂(せんぼん えんまどう)』の通称で呼ばれております。

 昔は、この通りは遺体が通る葬送の道でしたが、今ではそんな気も無い、昔ながらの古い商店街となっており歩くだけでも十分たのしいです。




▼引接寺(千本ゑんま堂)

入り口

 千本通沿いを歩いているとポッカリと空いた駐車場の様な場所に、「千本ゑんま堂」は有りました。

 僕が初めて訪れたのは、今から約15年程前の京都に住んでいた時だったのですが、その時は偶然に前を通った際に「閻魔」の字に興味を惹かれ参拝しました。

 ただ、その際は偶然過ぎた為、ちゃんとした撮影が出来なかったので心残りとなっており、今回念願叶っての参拝です。

 当時とも変わらず、相変わらず寂れた寺院です!

 
入口の閻魔像

 本堂横にあるビルの二階には、窓のプラスチックが日に焼けて曇り中が見えにくくなってしまっておりますが、「閻魔」像が展示?されております。

 なんとか巧く写真が撮れないものかと思案していると、御堂の方から聞きなれないお経が聞こえてきました。




▼本堂

本堂

 この寺院は、今から約1000年前の寛仁元年(1017)に鎌倉時代の仏師「定覚」によって創建されたと伝わりますが、それより150年前に現世と冥土を行き来する神通力を有したとされており、昼は宮中に赴き、夜は閻魔大王に仕えたとの伝承のある平安時代の公卿「小野篁(802年 – 853年)」が開基とも云われております。

 小さい寺院の為、知名度が低いとおもっておりましたが、安土桃山時代に京都に来た宣教師ルイス・フロイスも訪れた様で、1565年当時の本寺の境内の様子がフロイス著述の『日本史』にも記されております。

 また、織田信長が上杉謙信に贈ったと伝えられ、京の名所と町衆の姿を描いた国宝《洛中洛外図屏風》にも描かれており、当時には知られた京都の名所であった様です。

御堂内部

 毎月16日は、ゑんま様の日と呼ばれており、この日に訪れると御本尊である「閻魔大王」が開扉されており、直に観て参拝する事が出来ます。

 開山時からの「閻魔」像は応仁の乱の為に焼失してしまっており、現在の像は室町時代の長享二年(1488)に仏師定勢にって作られたものです。

 「閻魔大王」は地獄の支配者の様に思われますが、実は現世を司る佛様で、不滅の肉体を持たない僕たちにとって最も身近な存在です。

 何故、閻魔大王が怖い顔をしているのかというものに諸説ありますが、一般には人間を三悪道には行かせたくない為に、怒りの表情で、地獄の恐ろしさを語り、嘘つきは舌を抜くと説く為と云われております。




▼鐘楼堂

鐘楼堂

 鐘楼堂にある「梵鐘」は、南北朝時代の康歴元年(1379)に大工藤井國安が製作したとの刻銘がある古いもので、京都市の指定文化財に指定されております。

 毎年八月の「お精霊迎え」の行事には「迎え鐘」「送り鐘」を鳴らし、また大晦日には多くの人々が「除夜の鐘」を打つため並ぶそうです。







▼参拝後に御朱印

御朱印

 以上で、かつての京都風葬地入り口に建つ『引接寺(千本えんま堂)』の御案内となります。

 ここでも御朱印(300円)を頂き、私だけでも天国へ行けるようしっかりと祈り後にしました。

 娑婆とあの世を繋ぐ「千本えんま堂」には、死んだら極楽へ行きたい人々の思いが詰まったものを感じる事が出来ました。

 京都に来たときは、寺院の密集する千本通エリアを訪れてみては如何でしょうか。

 御精読有難うございました。

▼アクセス

〒602-8307 京都府京都市上京区閻魔前町34