大阪夏の陣の戦死者の血で染まった血天井がある『常光寺』へ潜入調査!!

常光寺(八尾)

 奈良時代の初めに「聖武天皇」の勅願によって「行基」が創建したと伝えられる大阪府八尾市にある『常光寺』にやってきました!! 
 この寺院は、創建以来「白河法皇」を始め皇族や貴族、武家に手厚く保護されてきた寺院です。
 
 時代が下り徳川家康が征夷大将軍となり始まった江戸時代初期の徳川家VS豊臣家の最終決戦となる「大阪夏の陣」折り戦国武将・藤堂高虎(徳川)が長曽我部方(豊臣)戦死者の首を常光寺の廊下に並べ、首実検を行う場所ともなり、その首実験をした際に、血が染み込んだ床板は、供養の為に寺院本堂の天井板となり今日でも見る事が出来る珍しい場所となっております。

 そんな深い歴史を持つ「常光寺」を観てみたいと思います!!




山門

 この寺院は、近鉄八尾駅近くに古くからある「ファミリーロード」という昔ながらの商店街の一角にあります。 

 順番を言うと、元々は「常光寺」が先ですが・・・
 
 八尾出身の僕にとって、住んでいた当時は近すぎて全く興味が持てず、灯台下暗しとはこの事で、訪れて初めて見た常光寺「山門」は、さすが皇族をはじめ、多くの位高い人々が訪れただけあり、かなり立派でした!!

工事中の本堂

 早速、境内へと入り「本堂」をしっかりと参拝させて頂きたかったのですが、工事中でしたので次回工事が終わったごろに訪れ撮影再掲載したいと思います。

境内を散策

 本堂前を後にし、本日のメインの見所に向かいます。

 境内には、ブランコが設置されていたりと地元の人々に密着した寺院となっております。

 僕の実家は、近鉄八尾駅から少し離れておりココで遊んだ事は無いですが、小さい頃にも訪れてみたかったなぁと思える素敵な昭和な臭いがしております。




▼血天井

血天井の見学

 常光寺の見所の最たる所とされる「血天井」には、本日も多くの参拝客が並んでおり御堂内部の天井を見上げておりました。

 ちなみに、血天井と言われるものは西日本に集中しており、有名なところは京都に集まっており、大阪府にはココ「常光寺」と池田市にあり、岐阜県に一ヵ所、徳島県に一ヵ所の合計12箇所あると云われております。

血天井

 早速、本堂内部の廊下の天井を観ましたが、京都で観られる血天井とは異なり、手足など分かりやす跡ではなく、血が滴る首を並べた為に付いた血痕跡である為、ただのシミの様にしか見えませんでした。

 でも、この木目に沿い見えるシミは約400年前に無念にも無くなった方の生首から滴った血痕の跡なんです。

 なんとも、感慨深いです。




足利義満奉納の扁額

▼足利義満奉納の扁額

 血痕が付いた天井から目線を下におろすと御堂内部廊下に掛けられた扁額に気付きます。

 この扁額は「こんな片田舎の小さな寺院にこんな物が!」と思える貴重なもので、足利三代将軍・義満筆によるのです。

 康応元年(1389)に高野山参詣の帰途、常光寺に訪れた際に、常光寺復興の有様を見て、用材の安堵を令するとともに、この扁額を自ら揮毛して寄進したと云われます。

 元々山門に掛けられていたものですが、非常に貴重な為、今は御堂内部に掛けられております。

枯山水

 血天井のある廊下の前に広がる庭には、綺麗に整備された枯山水が有り、戦に散り生首として晒された多くの魂に静かな眠りを与えております。




▼藤堂家七十一士の墓

藤堂家七十一士の墓

大阪夏の陣では、豊臣方の長曾我部は一方的に殺られた訳ではありません。 藤堂家も多くの者が亡くなっており、ここ常光寺には七十一士が眠っております。

七十一士の墓

 大きな五輪塔の左右に中ぐらいの五輪塔が横に並び、その周りに小さい五輪塔が配されております。
 これは、身分の高い武将が真ん中となり、その周りに一般に雑兵と言われる下級兵士達となっております。

七十一士の墓

 こういった身分による扱いが異なる点を観ますと、当時の雑兵と呼ばれた下級兵士達の哀れさが際立ちます。 同じく命を懸けて戦っても、亡くなってなお差別が行われるわけです。




▼さいごに

山門裏

 以上で、大阪夏の陣の戦死者の血で染まった血天井がある『常光寺』の御案内となります。

 奈良時代に創建されて以来、戦国時代、江戸時代、明治時代、昭和と多くの戦を観てきた寺院には、趣深い歴史を感じさせるものがありました。 

 皆様も訪れてみては如何でしょうか。 御精読有難うございました。




▼アクセス

住所:〒581-0003 大阪府八尾市本町5丁目8−1